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第554号 2004(H16).07発行

PDF版はこちら 第554号 2004(H16).07発行

 

 

植物栄養学の先達たち-1-

京都大学名誉教授
高橋 英一

はじめに

 植物栄養学はひらたく言えば,植物は何から,何を,どのようにして食べて生長するのかを明らかにする学問です。植物栄養学という名称が,大学の講義名や講座名に登場したのは昭和30年代で,それ以前は肥料学あるいは土壌肥料学でした。これは研究の視点が,土と肥料という植物の食べ物(Plant Food)の問題から,植物が養分を吸収同化する仕組み(Plant Nutrition)の方に移ったことを反映しています。

 ところで私は,今から50年余り前の1952年に農林省の農業技術研究所というところに就職しましたが,そこで一冊の書物に出会いました。それは”Russell’s Soil Conditions and Plant Growth(8th edition 1952)”という1912年の初版以来版を重ねている600頁余りの大部の本でした。私は先輩からこの本が土壌肥料研究者のバイブルになっていると聞いて,早速丸善に注文して勉強を始めました。1953年のことだったと思います。

 その第一章は”Historical and Introductory”で,23頁にわたって16世紀から19世紀末に至る50名近い人達の業績が簡潔に紹介しでありました。これを読んだとき,自分がこれからたずさわることになる「土壌肥料学」というものの姿がおぼろげながら見えるような気がして,勉学心をそそられたものです。

 そこに挙げられていた名前の多くにはその後の研究生活で何度か再会しましたが,研究の背景などを知って親しみを覚えるようになった人達も少なくありませんでした。ここではその中から6人を選んで,一寸したエピソードと感想を述べてみたいと思います。私の思い出の「植物栄養学の先達たち」にしばらくお付き合いください。

ベルナール・パリシー(Bernard Palissy)
-植物に含まれている「塩」の秘密を洞察したフランスの陶芸家-

 ”Historical and Introductory.” の第一頁に,「16世紀になってイタリアやフランスに多くの農書が現れたが,その中には後世の研究によって正しいことが認められた天才的な洞察がある」として,パリシーという人が1563年に著わした書物の一節の英訳が紹介してあります。それは次のようです。

 ”You will admit that when you bring dung into the field it is to return to the soil something that has been taken away…When a plant is burned it is reduced to a salty ash called alcaly by apothecaries and philosophers…Every sort of plant without exception contains some kind of salt. Have you not seen certain labourers when sowing a field with wheat for the second year in succession,burn the unused wheat straw which had been taken from the field? In the ashes will be found the salt that the straw took out of the soil;if this is put back,the soil is improved. Being burnt on the ground it serves as a manure because it returns to the soil those substances that had been taken away”

 「肥やしを畑に施せば,土から取り去られたものが再び土に戻ることになるのはお認めだろう…植物を焼くと,薬剤師や錬金術師がアルカリと呼んでいる塩気のある灰になる…すべての植物は何らかの塩を含んでいる。連作の第二年目にコムギを畑に播くとき,農夫が前作のコムギの藁を焼くのを諸君は見たことがあるだろう。この灰にはコムギが土から吸収した塩類がある。それを戻せば土はよくなる。藁が地面の上で焼かれると土から取り去られた物質が戻されるので,それは肥料として働く。」

 これが何故天才的な洞察であったかは,歴史の文脈の上でとらえる必要があります。焼畑や薪を燃やした際に生じる「灰」は,大昔から日常的に馴染み深いものでした。それは「アルカリ」と呼ばれ古代から洗剤などに,また中世にはガラス(教会のステンドグラスなど)の製造に重用されていました。灰が作物の生育に効き目があることも広く知られていました。しかし灰に対する認識は,個々の有用な原料としてであって,それらの現象の背後にある本質的な意味を考えるものではありませんでした。

 17世紀になると植物生育の素になっているもの(栄養素)の探求が始まりましたが,パリシーの指摘は中々生かされませんでした。

 先ず1652年にはヴァン・ヘルモント(Van Helmont)によって水説(Water Theory)が発表されました。彼は200ポンドの土を入れたポットに5ポンドの柳の枝を植え,雨水のみを与え続けました。5年後柳の重量は169ポンド3オンスに増加し,土の重量は2オンス減少していました。この間外部から与えたのは水のみであったので,増加した約164ポンドの樹体は水から生じたと彼は考えました。

 これは植物の栄養素についての最初の定量的な実験でしたが,彼は土の重量の僅かな減少と植物の周りの気体(gasはギリシャ語のchaosに因んだVan Helmontの造語)の存在の意味に気づかず,誤った結論を導いてしまいました。

 同じころグラウバー(Glauber)は牛小屋から「硝石」得,それが家畜の排泄物に由来すること,そして土に施すと作物が非常に増収することを認め,硝石こそ植物生育の素であると主張しました(硝石説1656年)。またウッド・ワード(Woodward)は雨や川や溝など起源を異にするいろいろな水でオランダハッカを栽培し,その結果から植物は水からできるのではなく,水に含まれている土に関係のある物質からつくられると結論しました(Earth Theory 1699年)。

 グラウバーやウッドワードの説は示唆に富んだものでしたが,その後の植物栄養観は動物栄養研究の影響下にありました。例えば植物は動物が餌をとるように土粒を根から摂取するのであって,耕転は土壌粒子を細かくして植物の摂取を助けるというタル(Tull)の説(1731年)や,「栄養は異質のものからではなく同質のものから得られる」という考えのもとに,植物の食べ物は腐植であり,アルカリなどの塩類は腐植の吸収を助ける作用をするものであるというワーレリウス(Wallerius)の腐植説(1761年)が有力でした。

 18世紀になっても植物体内の無機塩類の存在について正しい解釈は現れず,植物はアルカリを生成する能力があるという説もありました。これに対してパリシーは,農夫がコムギを播く前に前作の藁を畑で焼くのは,灰の中には植物が土から養分として吸収した塩類が含まれており,それらをもとに戻してやれば土は良くなり,肥料として役に立つからであるととして,一連の現象を見事に正しく説明しています。灰に含まれている塩類の起源とその意義について初めて正しい考察をしたパリシーを,近代農学の始祖の一人として著者Russellが第一に紹介したことは理解できます。

パリシーとはどんな人か

 私はこのパリシーという人がどんな経歴の持ち主なのか興味を持つようになり,文献資料を調べてみました。すると彼は単に陶芸家にとどまらず百科全書的な博物学者,すぐれた文筆家であったこと,フランス人は一般に小学校の教科書でパリシーの文章に接しており,戦前の日本でもパリシーの伝記が小学読本に載り,絵本にもなっていたことを知り驚きました。

 彼の経歴の概要は表1-1の通りです。これに見られるように80年という当時としては長命な彼の一生は16世紀全体をほぼ覆っています。この世紀はフランスがルネサンスの光とともに宗教改革の荒波を受けた時期でありました。とくに1562年のカソリック,プロテスタント両派の激突に始まるフランスの内乱は,1598年のナントの勅令でー応の終結をみるまで8回にもおよびましたが,彼はこのルネッサンスの光りも宗教戦争の悲惨も自分の生涯を通じて体験したのでした。そしてすぐれた陶芸家,博物学者として世に知られながら,宗教上の理由で捕らえられバスチーユで獄死しました。つぎに陶芸家および博物学者としてのパリシーについて少し紹介したいと思います。

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陶芸家としてのパリシー

 彼は約10年に及ぶ遊歴修行の後,サントに落ち着き,ガラス絵付師兼測量技師として生活を始めますが,その頃たまたま出合った白釉の陶器の美しさに魅せられ,その技術の秘密を知ろうとして釉陶の研究に打ち込み始めます。しかし失敗につぐ失敗で一家は困窮し,一時は家具や床板まで窯の燃料にする始末でしたが遂に「田園風陶器(Rustiques figulines)」の技法を完成し,世に認められます。これによって王侯貴族に多くのパトロンを得,新教徒であることによる度々の危機を免れます。

 第一の危機は1548年に起こった塩税反対の暴動です。塩税徴収のための塩田測量に従事していたパリシーは捕らえられますが,暴動鎮圧に赴いたモンモランシ一公(Duc d’Montmorency)によって救われます。それは彼がパリシーの作陶に興味を持ったためで,パリの北エクーアン(Ecouen)にある城館を釉彩したテラコッタで装飾する仕事を与えられます。

 第二の危機は1562年のヴァッシーの虐殺による第一次宗教戦争の時で,新教徒のパリシーはサントで逮捕されます。このときモンモランシーはカトリーヌ・ド・メジチス(国王シャルル9世の母で摂政)に依頼して,「国王御用田園風陶工術始祖(Inventeur des rustiques figulines du Roy)」の身分をパリシーに得させ釈放します。以後母后の庇護を受けるようになり,1566年には母后によってチュイルリ一宮殿内に工房と窯を与えられ,母后のために陶芸品の制作を始めるようになります。このために彼は第三の危機,1572年8月24日に始まる聖パルテルミーの大虐殺を免れます。

 パリシーの「田園風陶器」の特徴は,高浮き彫りを施して動植物の姿を表し,それを多彩な上薬で着色して自然を表現したものですが,彼の描いた動植物は実に写実的で,専門家はそれから種類を識別できたくらいだといわれています。これは彼の観察眼の鋭さの現れであり,自然科学者としてのすぐれた素質を示しています。

博物学者としてのパリシー

 この陶工としての仕事とは全く別の仕事を晩年のパリシーは始めます。それは1575年から行ない出した地質学,鉱物学,博物学一般に関する公開の科学講演です。聴講者は医者,法曹家,文学者,貴族などの知識階級の人々で,大変好評で10年近くも続いたということです。これはフランスにおける最初の学術講演会で,それが一介の陶工によって行なわれたということは特筆に価するでしょう。

 その内容は1580年に「森羅万象賛(Discours admirables de la nature)」として出版されました。全編は11章からなり,泉水,土壌,農耕,森林,鉱物,化学,塩類などに関する知識が述べてあります。その中でも第10章の「土の芸術について(De l’art de terre)」は自分の陶器製造の苦心談で,パリシーの名をポピュラーにしたものですが,その一節はつぎのようです。

 「一月以上も夜となく昼となく,これらの釉薬の材料をすりつぶさねばならなかった。…それを私が作った器に塗り,手製の竈に入れた。…六日六晩というものは,竈の二つの口から火を焚き続けても,この釉薬はどうしても熔けてくれず,私は絶望した人間のようになった。その上燃料がなくなってきたので,机や床板まで燃やさねばならなかった。」
 この話は昔日本の小学読本にも紹介されたということです。(渡邊一夫著 フランス ルネサンス断章中の「或る陶工の話-Bernard Palissyの場合」による)。

 パリシーが残した著作はもう一冊あります。それは1563年に出された「真の処方(Recepte veritable)」で,第1部は農業および化学に関する初歩的な解説,第2部は理想的な造園,第3部はサントの町における新教運動の歴史が述べられてありますが,Russellの英訳になるパリシーの言葉はこの第1部から引用したものと思われます。

 この二つはフランス語で書かれた最初の科学啓蒙書ですが,彼がこのようなことをしたのは聖書に基づく間違いだらけの自然科学的知識(たとえば化石の起源や泉の水の源についてなど)を正すためでした。しかしこのような行為は,異端審問に問われる大変危険なことでした。たとえば彼と同時代のイタリアの自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は,聖書に反する宇宙観を撤回しなかったため1600年に火刑に処せられています。

 パリシーはまた講演や著書の中で,輪作や施肥,灌漑,排水など,農業の改良に関することを述べていますが,これは当時多発した農民の反乱(1524-25年のドイツ農民戦争は最も有名ですが,パリシーがニュールンベルクに滞在していたのはその十年程後のことと思われます)を,農民の境遇改善によって鎮めようという意図があったのではないかと考えられています。

パリシーの偉大さ

 パリシーは陶芸家として名を成しますが,それだけでなく釉陶制作の中で得た知識を縦横に発展させました。陶器の原料の土に対する関心は,肥料や泥灰土など農学や地質学の研究に駆り立て,釉薬の研究はその化学的成分である塩類の研究ヘ向かわせます。また塩田の測量の仕事は,塩と生物との関係を考えさせるきっかけになりました。彼は塩田に自生するアツケシソウやオカヒジキは多量の塩類を含み,それらの焼き灰から抽出されガラスや釉薬の原料になるが,塩分を含む草原のものほど良い草は無く,それを食べる家畜の肉ほど良い肉は無いと述べています。これは塩を単なる化学物質としてだけではなく,生命に関わりのある物質としてとらえていることを示しています。

 パリシーの生きた16世紀は,中世のキリスト教的世界観から人間性を解放するルネッサンスの人文主義の思想が芽生え,宗教改革の嵐が吹き荒れた時代でした。しかし教育は依然として,神学とラテン語による教会支配の下にありました。パリシーは正規の教育を受けませんでしたが,それはかえって宗教のドグマに精神が縛られるのを免れさせました。

 また当時の職人が同職組合を訪ねて各地を遍歴する仕来たりは,職人の世界にルネッサンスの国際性をうかがわせますが,これは見聞を広め自らを教育する良い機会を与えました。パリシーは10年におよぶ遍歴の間に,フランス東部では人文主義の, ドイツでは新教の新しい思想に触れたと思われます。

 パリシーは聡明な頭脳と不屈不撓の精神の持ち主でした。そして彼の学び方は書物(それは非常に高価であり,ラテン語で書かれていました)によらず,自然の観察と実験に基づいて自分の頭で考えるというものでした。これらは田園風陶器という独創的な物づくり(技術)と自然現象についての正しい洞察(理論)を可能にしました。

 彼は’professional scientist’がまだいなかった時代における’craftman scientist’でした。これは300年後のCharles Darwin(1809-1882)が偉大な’gentleman scientIst’と呼ばわたのに匹敵すると思います。ルネッサンスは中世の教会的世界観から脱し,自然の再発見をした時代でしたが、彼の一生は正にそれを体現するものでした。そのために最後は異端として獄死しますが,ここにパリシーの偉大さがあります。

参考図書

1)E. John Russell:
  Soil Conditions and Plant Growth 8th ed. Longman(1952)p1-23 Chapter 1 Historical and Introductory

2)Palissy, Bernardの項目のある百科辞典
 a)Encyclopaedia Britanica vol 17(1960)p148
 b)The New Encyclopaedia Britanica vol 9(1987)p85
 c)Encyclopedia Americana vol 21(1968)p314
 d)[Michaud] Biographie Universelle Ancienne et Moderne XXXⅡ p20-24

3)渡辺一夫著
  フランス ルネサンス断章 岩波新書(昭和25)165-191頁 或る陶工の話-ベルナール・パリシーの場合

4)ピエール・ガスカール著 佐藤和正訳
  ベルナール師匠の秘密-B・パリシーとその時代 叢書ウニベルシタス 法政大学出版局(1986)

 

 

肥料の常識・非常識(6)

越野 正義

被覆肥料の養分溶出パターン

 被覆肥料からの養分の溶出型を大別して,リニヌ型とシグモイド型といわれる。

 リニア型は溶出が時間とともに直線的になることを想定している。TVAは硫黄被覆尿素の溶出で初期溶出率と微分溶出率を定義した。初期溶出率は1日以内に溶出する成分でいわば被覆の不完全さを示す。微分溶出率は初期溶出のあと一定期間(例えば1週間)の溶出速度を示す。溶出の際にはまず外から吸湿し粒内で肥料塩の飽和溶液ができ,その飽和溶液が膨圧に押し出され,ひび割れまたはピンホールを通って外部に滲出する。飽和溶液がある期間は直線的な溶出を想定した。

 ところが樹脂被覆尿素などの単粒子から溶出をみると,尿素の溶解度が大きいせいか初期から直線にはみえず,まして残存量が減少する後期には直線にはほど遠い。放物線状といった人もいるが,数学的におかしい。残存する肥料成分の濃度に比例した溶出曲線(単純放出曲線)を想定するほうがよい。溶出シミュレーションではこれに温度のファクターを組み入れたものである。

 シグモイド型は本来,植物の生長(乾物生産量,または養分吸収量)を現わすため想定した曲線である。しかし被覆肥料ではシグモイド型といっても,単粒子でみると単純溶出型であり,個々の曲線はS字状ではない。溶出開始時期がある幅をもって変動するため,個々の溶出を総計すると結果的にS字状になるのである。全農の小林ら(1997)は,単純放出に変動を表す係数を加えてシミュレーションを行なった(そのソフトが施肥名人)。これを使うと温度の影響も含めてパラメータがすべて説明可能である。

 (財 日本肥糧検定協会 参与)

 

 

鳥取県におけるマイク口ロングを利用した
ネギのセル成型育苗法

鳥取県園芸試験場 弓浜砂丘地分場
研究員 白岩 裕隆

1.はじめに

 鳥取県は西日本地域で最大の白ネギ産地であり,栽培面積は約900haとなっ
ている。作型は収穫時期によって,春ネギ,夏ネギ,秋冬ネギに分けられ,周年出荷されている(図1)。

 近年,生産者の高齢化や後継者不足,輸入ネギの急増による価格低迷が問題となっている。そのため,機械化一貫体系による省力・低コスト生産の確立が望まれており,その一つに機械移植技術の導入があげられる。当試験場では,機械移植に対応したセル成型苗の安定生産の確立に取り組んでいる。ここでは,本県におけるマイクロロングトータル201(以下,マイクロロング)を利用したネギのセル成型育苗法について,作業の順を追って紹介する。

2.全自動ネギ移植期

 本県では,みのる社とヤンマ一社の全自動ネギ移植機が普及している(写真1)。移植機の種類によりセルトレイ(以下,トレイ)の規格が異なり,トレイは,200,220および448穴のものが使用されている。各移植機で特徴があるが,共通して「そろった健苗」を作ることが安定多収を実現するために重要である。

3.セル成型苗の安定生産

1)セル成型苗の育苗方式

 一般にネギのセル成型育苗には,ベンチ上にトレイを設置する方法(以下,ベンチ育苗)とトレイを地面上に設置する方法(以下,地床育苗あるいは直置育苗)がある。本県のセル成型苗を利用した周年栽培では,播種は10月上旬から5月上旬まで行われ、2~3ヶ月の育苗期間を要した後,移植は12月上旬から6月下旬まで行われている(図1)。つまり,秋から翌年の初夏にかけて育苗が行われており,季節に合わせた育苗管理が必要となる。また,本県は日本海側に位置し,冬期間は日照量が少なく,育苗ハウス内の温度が上がらない。このため,ベンチ育苗は,セル内温度が不安定となり,発芽率の低下や生育不良を生じることがある(表1)。

 そこで,ベンチ育苗に代わる方法を検討したところ,地面に排水性のあるシートを敷き,その上にセルトレイを設置する方法(以下,シート育苗)が有効であることを明らかにした。本県では,地床育苗とシート育苗の二通りを行っており,いずれの方法でも育苗専用の緩効性肥料であるマイクロロングを使用している。

2)播種作業

 マイクロロングは,育苗専用に開発されたコーティング肥料で,肥効期間により40日,70日,100日タイプに分けられ,多くの野菜・花のセル成型育苗で利用されている。ネギのセル成型育苗では,各移植機メーカーから販売されている培養土に100日タイプを混和している。培養土1ℓ当たりの添加量は,200,220穴トレイで10g,448穴トレイで15gである。播種作業は,全自動播種機を利用しコーティング種子を播く方法,播種板(アクリル板を加工したもの)を利用し裸種子を播く方法の二通りがあり,生産場面で使い分けられている。1穴当たりの播種粒数は,200,220穴トレイで3~5粒,448穴トレイで3粒播種である。

3)育苗管理

①トレイの設置

 220,448穴トレイは,それ自体が育苗箱の役割を果たしており,苗床に根切りネットを張りトレイを設置する地床育苗,あるいは,床面にスーパーラブシートを敷きトレイを設置するシート育苗を行っている。200穴トレイは,水稲用育苗箱を使用し床面に設置する直置育苗を行っている。

②灌水と温度管理

 トレイ設置後は,培養土が十分湿るように2g/トレイの灌水を行う。ネギの発芽適温は15~25℃であり,季節に合わせて温度管理をする必要がある。低温期には,ポリエチレンフィルムのべたがけ,トンネル被覆して温度を高め,一方,高温期には,シルバーフィルムのべ夕張り,寒冷紗被覆して温度を下げる。べたがけは,出芽がそろってから除去する。出芽後は,培養土が乾かない程度に適量灌水し,ハウス内の換気につとめ,立枯れ病などの発生に注意する。

③剪葉と追肥

 草丈が15~20cmになると葉先が垂れてくるようになり,中が蒸れて病害が発生したり,苗が絡み合ったりする。これを防ぐため剪葉を行い,葉鞘の太い,直立した苗にする。剪葉には,動力剪葉機,反転式剪葉機を用いる(写真2)。草丈15~20cmで1回目の剪葉を行い,草丈12~15cmに刈る。その後は7~10日間隔で草丈15cmに刈る。通常は,3回ほどで移植できるセル成型苗となるが(写真3),季節によっては4~5回必要となることもある。

 マイクロロング100日タイプを添加しているので,基本的に追肥は行わないが,高温期の育苗では肥効の低下がみられることがあり,この場合,窒素量200ppmの液肥を1ℓ/トレイ,5日間隔で潅注処理する。

4.移植および初期生育

 機械移植は根鉢形成が重要となる。育苗日数は,春,秋の適温期で50~60日,冬の低温期で70~80日要する。移植時の注意点は,草丈15cmに剪葉しておくこと,培養土が乾燥すると根鉢が崩れやすくなるので適湿に保つことである。

 根を地中に伸長させる地床育苗は,育苗管理が容易である反面,移植時に断根することが初期生育に影響を及ぼすと指摘されている。筆者らは,培養土にマイクロロングを添加することで,地床育苗においてセル内根量が増加し,活着および初期生育が良好となることを明らかにした(表2,表3)。

 ネギのセル成型育苗は移植までに2~3ヶ月と長く,育苗期間中に肥料切れを起こすと液肥施用を行っても,生育を回復するまでに日数を要する。培養土にマイクロロングを添加することで,育苗期間中の肥料切れによる生育遅延を回避できると考えられる。また,100日タイプの緩効性肥料であり,残存した肥料成分は移植後の活着肥として生育の促進効果があると考えられる。

5.おわりに

 マイクロロングを利用したセル成型育面は有効な技術で,冬季の低温・寡日照条件下でもセル成型苗の安定生産が可能となった。これに伴い,本県では全自動ネギ移植機の普及が進みつつあり,省力・低コスト生産が期待される。

 なお,ネギのセル成型育苗の詳細は,農業技術体系に総説があるので参照していただきたい。

引用文献

1)金光幹雄:セル成型育苗と病害虫対策,17-24,日本植物防疫協会,2001

2)川城英夫:農業技術体系野菜編8-①,基221-231,農山漁村文化協会,1999

3)白岩裕隆・鹿島美彦:近畿中国四国農業研究,2,37-41,2003